むとうゆたかのありがと横丁☆

essayist, copywriter and blog writer. ネコ大好き。カフェ好き。代表ならなんでも好き。フリーランスの、エッセイスト。コピー。仕事の話や私的なメッセージはspontaneusly1969@gmail.comまで。

2016偲ぶ会奥田理事長より重要により、シェア。

今年も偲ぶ会、開くことが出来ました。 (先に追悼の辞を語ったTさんが)Yさんのこと言ってたけど、最後、川沿いの記念病院やったんかね入院されていたの。私も見舞いに行った。別人みたいにやせて、面影なくて、でも必死に最後まで生きていたね。  私ね、いまの時代においては、こうやって亡くなった人を偲ぶこと、忘れないということはね、もしくは、惜しむこと、さらにこの人たちとの出会いを喜ぶというかな、あの人と出会った、あの人と一緒に生きたということを自分の大事な思い出だと言うことは、今日この時代においては、すごく大切なことだと思うんです。 もっというと、今日この時代においては、それは闘いだと思います。  なぜかというとね、私は、やはりこないだ起こった相模原の事件がずっと気になっているから。みなさんもニュースでご存知だと思うけれども、ある障がい者施設で、しかも重複障がいといういくつも障がいを重ねてもっていた、そういう人たちがたくさん殺された事件。もともとその施設で働いていた26歳の青年がね、その施設を辞めた後、その施設で事件を起こして、19人を殺害した事件。これは単なる欲求不満とか、この社会に対して恨みをもっていたとかそういう事件じゃなくって、この人ね、自分が「いいことしてるんだ」というぐらいの気持ちでやっていたと思うんです。つまり、この若者がもったものの考え方というか、人との向かい合い方というか、人間をどうとらえていたか、という、そういうね人間に対する価値観が背景にあったと思うんですよ。その価値観がどんな価値観だったかというと、「生きる意味のない命は殺していいんだ」という価値観です。「生きる意味のない命だから、それはね逆に殺してやることがその人にとっても、もしくは家族にとっても、世の中や社会にとってもいいことなんだ」 彼は胸張ってこの事件を起こしたんですね。  聞きたいんだけど、「生きる意味のある命」と「生きる意味のない命」って、あるんですか? 世の中には、「生きる意味のある、生きていていい命」と、「生きたらいけない命」があって、「生きていたらいけない」というのは、家族も迷惑で、税金ばっか使っているから、そういう命は安楽死させろと言う、そういう命とかあるんですかね。 今の時代は、残念ながらそういう考え方がだんだんとふくれてきている。私、怖いと思うんですね。でも、本当にそうなんですか? 「生きる意味のある命」って言葉自体、成り立つのかね。成り立たないんじゃないの? 「命には意味がある」と言わないといかん、そうじゃないの。「命に意味がある」という風に我々は考えてきたし、「命そのものに意味」があって、「出会いそのものに意味がある」ってやってきたと思う。なのに、今の時代は命の中に「意味のある命」と「意味のない命」があるかのように論じ始めている。それでいいのか。「意味のない命は殺してしまえ」というお前は何様だ。  インターネット上では、彼のことを励ましている人、よくやったと言ってるやつもおるんよ。どうかなってるんじゃないか、この世の中は。でもね、これ、昨日や今日始まったことじゃないんです。我々でいったら12年前、小倉の自立支援センター、ここにもセンターにお世話になった人おるかな。自立支援センターを開所しようとしたときに、住民の反対運動がおこった。その住民反対運動の反対の署名の中に、こう書かれてました。「小倉北区の一等地に生産性の低い施設を建てるのには反対だ」と。つまり、ホームレスになった人がもう一回立ち上がって、再就職する、地域でもう一度の暮らしを始める、そういう人たちを応援する施設はねえ「生産性」が低いから反対だ、そんなものよりも一等地なんだから、商業施設を建ててもっと金儲けができる、「生産性」の高い施設をつくる方がいい。ホームレスの支援施設みたいな「生産性」の低い施設をつくるのには反対だと書かれていた。ちょうど同じ時期に、NPOのホームページにね、こういう書き込みがあったよ。「生産性の低い人間が迫害を受けるのは当然だ」。当時ね、ホームページに掲示板というのがあって、炎上しましたよ。その後、反対していた自治会とは和解して今は最大協力者ですがね。ありがたい。
 
 昨日や今日始まったことじゃないよ、この流れはね。小さなものがねえ、ずっとふつふつとこの社会のね、裏側にはあったんですね。すなわち「生産性」の高い人は意味がある、でも「生産性」の低い人、ホームレスは「生産性」低いから生きる意味が無い。そやけど本当にそうなの? 僕は、そう思わん。人がもう一回生きようと思って、その人がその人として立ち上がっていくっていう、これほど生産性が高いものないんじゃないの。もっと言わしてもらうと、そもそも「生産性」が問題なのか。人間に対して、人の命に対して「生産性」という物差しで測らないといかんのか。だいたい「生産性」の中身とはなんだったのか。結局は商業施設と比べられた。そんな問題ではなく、僕が出会ったこの人たちの「命」と天秤にかけるのは止めてくれと言いたい。リバーウォークと人間の命とどっちが重いか。そんなこと真剣に議論する価値があるのか。 「生産性」とは何か。結局はその物差しは、経済至上主義に裏付けされた金儲けじゃないか。お金にならないものは意味がないって言ってんじゃないか。そういう時代を僕ら生きてるわけ。そういう時代をね。  そういう時代のなかで、今日「偲ぶ会」やりました。そして、この128人全員の命を惜しんだ。だから、これは闘いなんだ。人間の命に「生産性」とか、「価値がある、ない」とか、「意味がある、ない」そんなことは言わせないという闘い。 ここに並んでいる人は、まあ、めでたく出会って、楽しく酒飲んで惜しまれながら逝った人もいましたよ。自ら命を絶った人もいますよ。部屋の中で死んでて見つかるまでに一週間、二週間かかった人もいましたよ。現につい最近もそういう別れをしましたよ。そういう別れ方とか、出会い方とか様々なんだけども、でもね、総じて私たちはこの人たちを惜しんでるんだ。総じて私たちはこの人たちを偲んでるんだ。総じて私たちはこの人たちの命、その命そのものに意味があるって今日は言うために集まったんだ。これはもう闘いよ。  今の時代は、今、この偲ぶ会をちゃんとやらないといけない時代。今この時代でね、命を惜しむということをちゃんとやらないと、飲みこまれるよ。「あいつは意味がある」とか、「あいつは意味がない」とか、「あいつは価値がある」とか、「あいつは価値がない」とか、そういうことをね平気で言う時代に我々は生きとるんです。もうNPO法人抱樸は、これからは闘いですよ。 抱樸館建てる時にも反対運動が起こったやろ。今でも反対の旗たってるじゃん。なんなんですか、いったい。何をもって反対してるんですか。一から十までそういうことに今なろうとしているなかで、われわれは、「人間そのものに意味がある」、「命そのものに意味がある」、「出会いそのものに意味がある」と言いぬく。
 
 でもね、これって実は結構難しいよ。きれいごとでは済まない。だって私たち経験してきたもん。この中でもね、誰とは言わないけどね、結構大変なおっさんいはりましたわ。「命そのものに意味がある」なんていってもね、実際にはもう堪忍してよと、ともかく何とかならんかねと思う出会いがあったわけ。おるやろ、この辺に並んでいる、誰とはいわんけどね。(遺影のひとつを指して)この I さんなあ、たいへんやった。この中にもこの人に貸したお金、かえってこんかった人おるやろ。色々いましたよ、でもねそういうきれいごとじゃすまない、人間と人間の出会いは、ほんまにしんどい。迷惑もかけられるし、本当にこの人とつきあって、何の意味があるんやろうかと悩みましたよ。当然ね。しんどいことばっかりやないかと思った日もあった。でもね、それすらわれわれは乗り越えてきたんじゃないですか。乗り越えてきた結果がこの「偲ぶ会」じゃないですか。今日偲んだ人、私たちセレクトしましたか。「いい出会いをした人」だけ偲ぶって、やりましたか?「いいお別れをした人」だけをここで写真並べてきましたか、並べていませんよ。大変な人、いっぱいいるよ。だけども、その人たちすべてに意味があるっていうのが、今日の「偲ぶ会」の意味ですよ。だから、これは闘いなんだ。この闘いを私たち闘い抜くんだ。  僕らも実はしんどい議論があったんだ。あのね、われわれは、ひとつの信仰というか、信念があった。「人はいつか変わる」っていう。これNHK の「プロフェッショナル」にも出たよ。ピロリンってあの番組でキーワードが出るわけ。「人はいつか変わる」って。でもあの時、NHK と攻防戦があった。「人はいつか変わる」っていうタイトルは、僕らの体で言うと半分しか現わしてないと収録直前NHK に訴えていた。確かにわれわれが闘ってこれたのは、「人はいつか変わる」という確信があったから。どんな人も出会いの中で変わると言ってきたし、実際に多くの人は変わっていかれた。ホームレスから9割以上の方が自立して、路上に戻ってないでしょ。だけど、これって下手するとね、こういう考えに染まっていくと「僕らと出会って変わってくれる人はいい人」、「僕らと出会って変わらない人は悪い人」、つまり、「いいホームレス」と「悪いホームレス」という分断が起こる。「支援をする意味のあるホームレス」と「意味のないホームレス」がいるかのような価値観にさいなまれ始めたわけ。そうなるとね、「あの人、変わりそうだな」と思える人にいっちゃうわけ。「あの人だったら自立するんじゃないかな」と思う人にいっちゃう。 それが始まった時に私たちは苦しんだ。考えた。そして、「人はいつか変わる」っていう言葉と同時に、「変わらなくても人は生きる」という言葉を語ることになった。「人はいつか変わる」という言葉と、「変わらなくても人は生きる」。このせめぎ合いの中で俺たちは体を裂かれよう、そこで体を裂かれながら人間とは何か、命とは何か問い続けようと。だから NHK の番組担当が「『人はいつか変わる』という言葉を使います」と言って来た時に、「ちょっと待ってくれ」と、「『人はいつか変わる』の下に、『変わらなくても人は生きる』と入れてくれ」と言った。結局、それでは視聴者がわけわかんなくなるから入れられないって、放送では「人はいつか変わる」だけになったんです。  我々でさえ「応答できるいい人」と、そうでない人を分けそうになる。(炊き出し巡回で)いつ行っても「帰れ」と言ってた西原さん・・・(西原さんを指さして)悪いホームレスね(笑) 11年間も弁当を届けさせといてよ、行くたんびに帰れ、帰れ・・・なんちゅう失礼なおっさんやと思ってた。もう弁当やらんぞと思うんだけど、そういうわけにいかない。なぜか。それでも人は生きるから、だから弁当置き続けた。結果、西原さんは変わったんだけど。  一方でこの前亡くなったWさん、先日夏祭りで追悼したWさん。彼の場合、もうほんとに「助けて」と、なかなか最後まで言えなかった人。最後の最後にやっと「助けて」と言ってきて、それで病院に入院したけどもう末期だった。いろんな人おるよ。でもね、「人はいつか変わる」ということに意味を見出した我々は同時に「変わらなくても人は生きる」、「生きていることに意味がある」と言い続けたよ。そのことを今やっぱりね、我々はちゃんと言わないかんと思います。それが今日の「偲ぶ会」の意味です。  「偲ぶ会」というのは、そのためにやるんだ、単なる思い出話の会ではない、これは闘いなんだ。この時代に対する闘いとしてわたしたちは偲び続ける。惜しいと思い続けるし、あの人と出会ってよかったな、色々あったけどよかったなと言い続ける。そういうことを今からもやり続けたいと思うんですね。  日本は「生産性」の価値観にどんどんさいなまれます。私はこれが戦争への道やと思ってる。戦場に人を送るんだったらどういう人を送るのが都合がいい? まわりから惜しまれている人、まわりから大事だと思われている人、「生産性」高い人を戦場に送ったら大問題になるよ。戦場に送って一番いいのは、死んでも誰も悲しまないような人、そういう人を戦場に送ればいい。そのために、日ごろから「生産性」の価値観をもって若者や社会の意識を分断しておく。死んでもらったら困るような大事な若者たちと、早く死んでもらった方が税金つかわんでいいわと思われているような若者たちと色分けしておく。こっちの人たちをどんどん戦場に送ったら誰も悲しみはせんよ、戦争やっても誰も反対しない。そういう風に、人の命をないがしろにする道は、全部最後にはつながっている、一本になっている。  だから、私は今年の「偲ぶ会」には、今まで以上の意味があると思う。どうか心に刻んでほしい。そしてひとりひとりが無くてはならない人間だと胸を張って言おう。「意味のある命/意味のない命」なんかないと宣言しよう。命そのものに意味があるんだということを言い貫く NPO であり続けたいと思うんです。 すいません、全員で黙祷をしたいと思うので、立って下さい。立てない人はそのままでいいです。 私たちのなかまであった、わたしたちの家族であった128名を覚えて、この人たちの命を思い、この人たちとの別れを惜しみ、そして出会いを喜ぶため、黙祷をしたいと思います。 黙祷―。
                    2016年 9月2日 抱樸互助会 「偲ぶ会」